僧名…不安則安、俗名…廣福則安  東加茂郡旭町字浮橋生誕

津速産霊神三代天兒屋根命世〇唱春日明神次於國之辞代主命唱中臣神次於大和國夛茂峰談山宮唱式内宿袮該孫人皇八十九代弘長中武蔵國豊嶋郡城主日野安藤駿河守藤原隆光三男安藤光二郎藤原高吉人皇九十代弘安二乙卯年参州加茂郡大坪村移住而二十壱代安藤金重藤原盛久人皇百十七代宝暦二壬申年八月仝國仝郡能見村尓分邸右盛久より三代安藤源吾郎藤原義親五男□廣福則安也者文政五壬午年四月二十四日夘上刻誕生□天保四癸根箇蛇巳年七月二十八日仝仝郡足助村随意會兼法事會格地飯盛山香積寺住職二十四代就寂潭俊龍得度行却越略□嘉永六癸丑年冬武州荏原郡世田ケ谷村元江州彦根城主井伊掃部頭菩提所常恒會大谿山豪徳寺二十三世俊龍恒會尓於て首座職□仝暦七甲寅年正月二十八日入俊龍室嗣法了畢□安政元申寅年二月六日仝仝郡若林村桃源山香林寺初住世代二十世□仝暦仝年夏六月朔日登越前國永平寺轉衣上京御輪子奉戴□元治元申子年三月二十日元阿州家の老職稲田九郎之祈願所大坂市東成郡小儀町字上ノ宮明月林藏鷺庵住職世代十六世□仝年夏於仝庵初會法幟す□明治三庚午年正月二十日江州神崎郡佐野村繖山善勝寺移轉世牌十九代於該授戒自戒師以来夏冬共助化不断□明治五壬申年四月十七日岩代國岩瀬郡須賀川町廣福山長禄寺常法幟國録喬遷世代三十六世□明治十二乙卯年十二月四日元彦幡太主井伊直憲公之請尓応東京府下世田ケ谷豪徳寺へ移転世代二十八世□明治二十九丙申年六月一日より能登國曹洞宗大本山総持寺僧堂詰後堂職奉勤務□仝暦仝年十二月二十八日元加能越三州大主前田犬千代公創建能登國鳳至郡櫛比村大本山総持寺後見職亀阜山芳春院へ転住世代三十三世□仝暦三十一戌戌年二月八日越後國中蒲原郡十全村瀧谷當國四壱箇本山の第位元國録常恒會明白山慈光寺へ両大本山特撰に依て榮轉世代四十六代□明治三十五壬寅年四月三十日越前國永平寺御開山六百五十年侍夜御代香勤拈香日眼横鼻直洞家禅空手還郷曲正傅要向承陽知秘訣無声琴瑟響聨綿夷一粒粟中藏世界半舛鐺内煮山川□明治三十七年十二月八日同國北蒲原郡安田 村謙信公開基臨沢山観音寺常會開創叢林開闢三十七世両大本山特撰榮転□明治四十四年十一月六日大本山総持寺獨住三世西有穆山老師荼毘起龕導師□明治四十五年四月二十八九日□同五月七八日□同九日御忌古都管長の御代理を務める 

大正 年 月 再び能登芳春院(38世)に転住大本山西堂職を勤め 大正四年十二月三十一日該院に寂す 墓は分骨し鶴見総持寺、越後慈光観音寺 奥洲長禄寺及び東京豪徳寺並びに生家安藤家の墓地に葬る

幾年灑掃所々寺瓦礫翻來釈梵宮今を巧成〇吉也杖頭

八面起清風      廣福則安筆画題
 

安藤家系図(藤原家)

  武蔵国豊嶋郡城主日野安藤駿河守藤原隆光 人皇八十九代

   (十四世紀前半に武蔵国(埼玉県)から三河国に移住したといわれる)   

  安藤光二郎 藤原高吉 弘安二年(一二七九年)加茂郡大坪村に移住

二  安藤 光蔵 藤原言智  初代安藤光二郎は隆光の三男人皇九十代

三  安藤 新吉 藤原徳光 

四  安藤平太夫 藤原内明  ※人皇とは、神武天皇以後の天皇のこと

五  安藤重三良 藤原功時 

六  安藤文之進 藤原言久

七  安藤五左エ門藤原修照   

八  安藤政五郎 藤原扶公

九  安藤 六助 藤原安茂

十  安藤 文吉 藤原好文

十一 安藤 兵庫 藤原満中 

十二 安藤與右エ門藤原利安 

十三 安藤平八郎 藤原徳知

十四 安藤孫右エ門藤原文安

十五 安藤 文助 藤原此政

十六 安藤平太夫 藤原盛安

十七 安藤平五良 藤原定知

十八 安藤 文彌 藤原藤富

十九 安藤源之助 藤原友和

二十 安藤 金八 藤原政則 安藤金重藤原盛久 

二十一安藤 金重 藤原盛久 宝暦二年壬申八月当国加茂郡能見村へ分家  

二十二安藤平六郎 藤原永吉  (一七五二年)

二十三安藤 庄吉 藤原徳宝        

二十四安藤源吾郎 藤原義親

二十五安藤喜用志 藤原佳雄 式内能見神社 神主

   安藤源吾郎五男彌五良(則安大和尚文政五壬午年四月二十四日生)

二十六安藤 学       縣会議員 初代旭村 村長

二十七安藤延太郎      郡会議員 神主

二十八安藤 進

二十九安藤 亨      

三十 鬼頭俊雄(淳子)   

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僧名…不安則安、俗名…廣福則安  東加茂郡旭町字浮橋生誕

津速産霊神三代天兒屋根命春日明神次於國之辞代主命中臣神次於大和國夛茂峰談山宮武内宿祢 孫八十九代弘長年中武州豊嶋郡城主日野安藤駿河守藤原隆光三男安藤光二郎藤原高吉九十代弘安二乙卯年参州加茂郡大坪村移住而二十壱代安藤金重藤原盛久百十七代宝暦二壬申年八月仝国仝郡能見村に分右盛久ヨリ三代安藤源吾郎藤原義親五男〇廣福則安也者文政五壬午年四月二十四日夘上刻誕生


安藤駿河守隆光

 源海は藤原鎌足の末孫で、俗姓日野真夏11世安藤駿河守隆光と称する武蔵国豊島郡荒木村(現・埼玉県行田市)を領する鎌倉時代の坂東武者で、武州児玉党の随一といわれていた。

出家し、親鸞の直弟子に

 寺伝によると、隆光は寵愛する花寿丸(7歳)と月寿丸(5歳)の二人の息子をはやり病のため同時に失い、悲嘆にくれた。
 隆光36歳のある夜、亡くなった二児が枕辺に立ってこう告げたという。「われら兄弟は、西方浄土に赴いて観音と勢至菩薩となった。汝は未来永劫、悪道に堕ちるは必定なり。われら汝の二子となり、世の無常を目の当たりに見せしめた。すみやかに仏法を聴聞し、本願の大道に帰入すべし。」それが機縁で仏門を志したと伝える。
 それを動機に遁世して江ノ島の岩屋に籠って修行した。ところが、或る夜、夢にもあらず、二童児が来って「今東関に権化の僧あり。弥陀の本願を説きて時機相応の教えを弘む。速やかに彼処に至って聖化を受けたまえ。我は観音、勢至の二菩薩なり」と告げて、西方の雲にかくれた。
 その頃後に浄土真宗の開祖となった親鸞(1173―1262)は、越後に流配され、四年後赦免されたが帰京せず、1214(建保2)年妻忠信尼を伴ない関東に移住し、以後約20年間民衆の布教に専念した。
 隆光、後の荒木源海が常陸笠間の稲田の草庵に親鸞を訪ねて、弟子となったという。

万福寺の開基

 1245(寛元3)年、隆光が故郷へと志したとき、聖人の形見として、聖徳太子自作といわれる太子像(木像)を譲られた。帰りの途中江の島の岩屋に参篭し、夜の波間に浮遊する光るものを取り上げ、立像の阿弥陀如来を感得したとされる。霊場をもとめて砥上ヶ原にきた源海は、鵠(クグヒ・白鳥)の棲む沼地の一方を埋めて、一宇を創立し鵠沼山万福寺と号し、かの尊像阿弥陀如来を安置し、開基創建したと語り継がれている。
 後に関東六老僧の一人となり、笠原一男の「親鸞と東国農民」によると、親鸞面授の門弟数は44人で武蔵国では、西念をあげている。また、親鸞上人の直系―真仏―顕智―専空(以下略)、真仏の門流に、顕智、専信、専空、源海(荒木沼福寺)、了海(麻布善福寺)、了源(京都仏光寺)が六老僧とよばれて、聖人没後の関東教団はもとより他地方にまで広範な教線を張った俊才であったと記している。これには別説もある。

故郷へ還って入寂

 1250(建長 2)年、寺を真弟(実子で僧職継承者)誓海に譲り、故郷武蔵国荒木に還り、1253(建長 5)年10月22日に源海上人は故郷武蔵国荒木で入寂した。享年89


眉目如笑 温容如春 霊中而照 應外而新 一微塵喪 聞玄化石 草詩適轉 法燈無? 明霊了々全身 

ビモクワラウガゴトシ オンヨウハルバルノゴトシ レイチュウスナワチコレョテラシ オウガイスナワチコレヲアラタニス イチビジンソウ ブンゲンカセキソウシテキテン ホウトウムジン メイレイツネニリョウリョウゼンシン ホウゲゲンゼンシン

微笑むがごとし 春のような顔つき そのたましい(心)は内をてらし そして新たに外(おもて)に相応する きわめてわずかの塵もなく煩悩は断たれても
なおやにくたいは化生する 語る詩(詞)は時に転じて無尽の法燈となる 明るく照らされる その魂は常に無我の境地としてもその身を放下するわずかの塵もなく煩悩は断たれても
なおやにくたいは化生する 語る詩(詞)は時に転じて無尽の法燈となる 明るく照らされる その魂は常に無我の境地としてもその身を放下する



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