僧名…不安則安、俗名…廣福則安  東加茂郡旭町字浮橋生誕

     廣 福 則 安  幕末・明治時代・禅僧

   傳   記 文政五年四月二十四日 三河賀茂郡能見村に生まれる 安藤源五郎の五男 廣福は明治五年
  岩代須賀川廣福山長寺在住中庶民
一般姓を付くる布告により山号をとって姓となす。天保四年足助香積寺寂  不知縁潭俊龍和尚に就いて得度嘉永六年東京世田ケ谷豪徳寺寺幣恒会に於いて首座職仝七年俊龍の法を嗣ぐ   安政元年武蔵荏原郡若林村香林寺に初めて住職となる。元治元年三月大阪小儀町明月林蔵鷺庵(十六世)に  住。明治三年正月江州神崎郡佐野村きぬがさ山善勝寺(十九世)に転住以後助化不断。明治五年四月岩代岩  瀬郡須賀川時廣福山長禄寺(三十六世)明治十二年十二月元彦根藩主伯〇伊井真憲公の請に応じ東京世田  ケ谷豪徳寺に転任す。在住中井伊直弼後室鏡院の葬儀の導師たり明治二十九年六月能登総本山寺後堂詰の後堂  職を勤む。仝年仝月前田犬千代創建能登櫛比村(本山後見職)亀阜山芳春院に転住(三十三世)明治三十一  年二月越後中蒲原郡十全村瀧谷本山常恒会明白山慈光寺永平・総持西大本山の特進により栄転(四十六世)  明治三十五年四月越前永平寺開山六〇五十年祭待夜に代香を勤む明治三十七年十二月越後来た蒲原郡安田村  草水謙信公開〇臨澤山観音寺(会開創業林開〇)の両本山特撰にて転住。明治四十四年十二月大本山総持寺  獨住三世西穆山禅師茶毘起〇導師〇に御忌に当り能登大本山管長の代理を勤む大正 年 月 再び能登芳春  院(   世)に転住大本山西堂職を勤め大正四年十二月三十一日該院に於いて寂す 墓は分骨し鶴見総持  寺、越後慈光観音寺 奥洲長禄寺及び東京豪徳寺並びに生家安藤家の墓地に葬総持独住四世牧牛素堂禅師  則安の像に賛して 眉目如笑 温容如春 雲中〇照應外而新一 〇裏 聞玄化石 学 転 法燈色蓋 愛常  了々全身 放下現全身 法名 本山西堂芳春三十三世法〇開〇不安則安大和尚。 生涯独身妻帯せず。最後  の帰郷は明治三十五年頃 明治四十三年三月文雄越後観音寺に赴く、膝下にいること二年則安老 令のため弟  子松本全儀の〇〇として宗務局に届出す、再度本山西堂職になるの時 余生長からざるを思い生家に重要辞令  類遺物書画類を送る。その一部は文雄横浜戸塚徳翁寺に持参する。素堂則安の徳望に随従し則安〇堂の英智恩  恵周密なるを愛し肝臓〇照すに到る能登本山炎上に際し宗門興隆の為移転再建を主唱し相協力し反対を排し  て鶴見の地を相して現大本山総持寺を建立す

          (則安五十回忌の年  昭和四十年二月記)
  



眉目如笑 温容如春 霊中而照 應外而新 一微塵喪 聞玄化石 草詩適轉 法燈無? 明霊了々全身 

ビモクワラウガゴトシ オンヨウハルバルノゴトシ レイチュウスナワチコレョテラシ オウガイスナワチコレヲアラタニス イチビジンソウ ブンゲンカセキ ソウシテキテン ホウトウムジン メイレイツネニリョウリョウゼンシン ホウゲゲンゼンシン

微笑むがごとし 春のような顔つき そのたましい(心)は内をてらし そして新たに外(おもて)に相応する きわめてわずかの塵もなく煩悩は断たれても なおやにくたいは化生する 語る詩(詞)は時に転じて無尽の法燈となる 明るく照らされる その魂は常に無我の境地としてもその身を放下する


newpage1html
newpage2html

newpage3html
newpage4html
newpagenewpage5.html へのリンク5
newpage7html へのリンク
newpage8htmll
newpage11html
page5html
page7html
page8htm
riekihtml



鬼頭新ぺーじ