江戸時代後期の近江国彦根藩主で江戸幕府の大老。文化12年(1815)10月29日、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内で生まれた。5歳で母を亡くし、天保2年(1831)に17歳で父が亡くなると、長兄の藩主直亮から300俵を与えられ、城外の屋敷に移り住んだ。兄が多くいたため、藩主になる見込みがなかった直弼は、この屋敷を「埋木舎」と名づけ、文武諸芸の修養に励んだ。居合道や禅を究め、茶道では自らの流派を起こすまでとなり、また長野主膳から国学を学んだ。
 直亮の後継ぎとなっていた兄直元が病死したため、弘化3年(1848)後継ぎとなって江戸に移った。嘉永3年(1850)直亮が亡くなり、藩主となって、掃部頭と称した。嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した際には、幕府の諮問に答え、アメリカへの対応についての意見書を提出したが、開国を主張する直弼は、幕政参与となっていた水戸藩主徳川斉昭と対立することとなった。翌年ペリーが再び来航すると、開国して穏便に争わないことを主張する直弼は、打ち払いを主張する斉昭と激論を交わすこととなった。また将軍の後継者問題でも、一橋慶喜を推す斉昭等に対して、直弼は、血統を重視して、紀州徳川慶福を推して対立することとなった。
 安政5年(1858)に日米修好通商条約の勅許の問題では、朝廷工作を行い、有利に進めようと画策するが、尊皇攘夷派の朝廷への運動も活発となり、勅許を得ることに失敗する。この直後に幕府の大老に就任し、幕政の中心に立つと、勅許のないまま、条約調印を行い、将軍後継者についても紀州の慶福(後の家茂)に決定することを公表するなど、幕府を主導した。
 混乱する京都の情勢を好転させるために、朝廷工作を行うが、尊王攘夷派の活発な運動により、朝廷では攘夷派の公卿が勢いを増し、水戸藩に幕府の無断条約調印を責める勅書(戊午の密勅)が下されることとなった。これを契機に、尊王攘夷派の活動の弾圧をはじめ、密勅の首謀者として梅田雲浜を捕らえると、翌安政6年(1859)にかけて、安政の大獄を断行し、多くのものを処分した。特に水戸藩には関係者を厳しく処罰し、密勅の返納を迫ったために、強い反発を受けることとなった。翌年の万延元年(1860)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳。
 幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている。


豪徳寺28世俊龍大和尚が 井伊直弼の主座職を務める。

貞鏡院


丹波亀山藩主・松平信豪の次女として生まれる。母は播磨姫路藩主・酒井忠実の娘・采。初名は多喜で、その後、貞、昌子と改名した弘化3年(18461月、32歳の直弼は部屋住みの身から異母兄の彦根藩主井伊直亮の世子となり、正室を迎えることとなった。このとき将軍家からの縁談(将軍家慶の養女精姫)も持ち上がったが、藩主の直亮はこの縁談を快く思わず、急に丹波亀山藩との縁組を進め、同年1013日には幕府老中に対して縁組の願書を提出した。このとき多喜は12歳であった。 将軍家との縁談を断って間もなくの弘化4年(18472月に、井伊家は相模湾の警護を命ぜられた。このとき世間に流布された落首に「掃部さん表きらいで裏がすき」というものがあった。表(将軍家)との縁組を断って裏が(浦賀)に行くことを命じられたという意味である。 婚礼が行われたのは嘉永5年(1852819日のことで、多喜は18歳、縁組が整ってから6年が経過していた。この縁組が将軍家との縁談を断るために急遽整えられたものであるため、兄・直亮の藩主時代には婚礼の話が進まなかったと思われる。この間、嘉永3年(1850年)9月に直亮が死去し、直弼が彦根藩主となっている。 明治18年(1885年)、51歳で死去した。墓所は東京都世田谷区豪徳寺

豪徳寺33世則安大和尚が貞鏡院の主座職を務める。













































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