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●上のイラスト画像はもう15年程前のものになる。イラストが歳をとらないように、私も気持ちだけは若いままでいたい。 写真を撮り始めたのは30年程前のことになる。詳しいことはもう覚えていないが、普通の人と同じで趣味が高じて熱中したということであろう。 当時35ミリ一眼レフが全盛期を迎えつつあった。初歩の頃少し35ミリを使った覚えがあるが、ほとんんど中型カメラで、ポジフイルムで撮影した。最初から印刷を目的としていたもので、当時の印刷技術では中型以上が必要とされた。それとカメラそのものの使用感も中型カメラのほうが面白かった。また、いかにも「写真を撮る人」らしく、格好を気にしていたのかもしれない。今は中型カメラもポジフィルムも使用することはなくなった。 |
●当時の愛用はペンタックス67であった。コーワ6、ハッセルブラッドをサブカメラとしていた。4×5はトヨフィールドを愛用した。リンホフ用ボードでレンズ交換をしていた。いつかリンホフとは思っていたが100万円ほどの価格は高値の花であった。キャビネ版、8×10も木製暗箱カメラで楽しんだ。アオリの技術、それによる写真効果の予想が、今でも大きな写真眼への財産となっている。 ●主な撮影対象は、奥三河の民俗芸能と風景写真であった。今では高名な写真家となられた竹内敏信氏が当時奥三河の「花祭り」取材に没頭されていたことを覚えている。写真評論家杉本誠氏の紹介で、名古屋の県庁近くで竹内氏にお会いし、花祭りの写真集出版企画のことや私の写真についてご指導いただいたことがあった。氏はその後、名著「花祭」(昭和58年/誠文堂新光社)を出版された。2万円の超豪華な写真集であり、花祭り不朽の名作となっている。私の座右の写真集でもある。 ●さて、私のことにもどると、とても奥三河のことをまとめる段階には至らなかった。趣味の範疇ということもあるが、基本的には才能不足であった。奥三河の取材活動のかたわら、郷土豊田市の写真を3年計画で撮り始めていた。これはローカル出版として昭和53年に写真集「ふるさと−豊田の四季−」としてなんとかまとめることができた。この写真はこのHPの「豊田の四季」で一部紹介させていただいた。結果的にこれが公表した最後のものとなってしまった。奥三河取材は継続したが、視点が定まらないまま胡散霧消の道をたどった。 ●奥三河についてであるが、前田真三氏の写真集「奥三河」(昭和60年/グラフィック社)を手にした時はまさに衝撃的であり戦慄の走る思いであった。初期の前田真三氏についての記憶はこうであった。商社マンからリンホフ一台を手に脱サラで写真活動に入られた。他の写真家と違い、芸術写真でなく商業的に売れる写真を最初から目的にして活動された。したがい、分かりやすいきれいな写真で、売れる写真であった。しかし、一見平凡な風景の中にも氏独自の美眼があり、出版社側からもその真価が認識され今日の名声を得ることとなった。北海道の風景は氏の創出によるところであり、偉大な功績でもある。しかし、この「奥三河」には、氏の写真芸術家としての側面が強く出ており、素晴らしい写真集であり、写真の原点があるように思う。今にして思えば、まさにこのようにまとめることができたらなあ・・・・と感慨の思いである。卵は立ててからなら真似することは容易である。「奥三河」は、二冊目の座右の写真集となっている。 |
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●最近の写真の転機はデジタル写真であった。当初はさほど意識せず適当に楽しむ程度であった。しかし、機材の発達と併せ、その写真表現にフイルムとは異なる無限の広がりがあることに気づかされた。ポジフイルムの世界を否定はしないが、その世界が写真のほんの一側面、一分野にすぎないことを認識させられた。デジタルは写真の世界を広げ、楽しみを倍増させた。 主力カメラはフジS2Proで、サブにニコンD100を使用している。最近はCanon Eos Kissも加わってしまった。その他、ソニー・フジなど小型デジタルは入れ替わりが激しい。プリンターはエプソンのPX−9000を愛用している。B0ノビまでプリントできるが大きすぎて、A1ノビが常用プリントとなっている。PM−4000PXやPM−3700Cは手軽で、A3ノビには最適のプリンターとなっている。 |
●豊田市と英国ダービシャー県は姉妹都市となっている。そんな縁で、平成14年の豊田市派遣写真交流使節団に加わることができた。この時は手軽なデジタルカメラとしてソニー707を持参した。メモリースティックが128MBしかなく、何枚も所持する必要があり苦慮した。しかし、思いのほか写真は軽快に撮ることができた。一箇所数十分から1時間程度の撮影行程にはそのハンディさが長所となった。撮影画像はJEPGの500万画素であるがほぼ満足できる画質であった。 ●ダービーシャーでの撮影写真を簡単な写真集にまとめた。この写真集がダービー特別市の新聞に紹介されたのが上の写真である。「東洋の眼」とでも言うべきか、外国人がどう見るかが関心の的であったように思われる。今では友人となったダービーテレグラフ社の新聞記者Mario氏が詳細な記事を書いてくれた。 ![]() ●現在ダービーシャーとは、当時の使節団の一行の方々が写真交流の絆を深めておられるので、このホーム頁でその活動の一端を紹介させていただくこととした。英文頁において相互の活動を紹介している。 この交流とは別に、同じ写真愛好家であるダービーシャー県チェスターフィールド市のKen Davis氏と個人的に親しくなれたのは幸いであった。世界を旅して取材するプロ写真家も属する写真愛好団体の中心的人物でもあり、彼を通じて英国の写真事情がよくわかる。彼の団体でもデジタルが主力となりつつあり、つい最近会員の間で Photo Shop(画像処理のソフトで世界的に有名)の研修を行ったとの報告を受けた。テクニックの詳細なnotes付きであった。 言葉の壁もあり相互理解は簡単ではないが、写真そのものには言語がなくても眼で理解できることが有利さとなっている。 (了)− 2003・01 追記 |